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ホツレ日記

映画 古長屋 銭湯暮らし

子供の頃を見つめると

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20代の私の時間はもう残りわずか。あんまり焦りとかそういうのはなく、ようやくかといった感じです。去年より映画を見ようと考えていたのですが、生活環境が変わったせいもあり、シンゴジラ以降映画館で映画を見れていません。「君の名は。」まだ上映されていますが、まだ見ていません。天邪鬼な性格だからか、あまり周りが盛り上がっていると逆に見る気が失せてしまいます。(シンゴジラは例外)インタビューをyoutubeで聞いているあたり、「君の名は。」に興味有なのは見え見えですが。

 

 

新海誠監督のインタビューで言っていた言葉の中で印象に残ったのは、「かつての自分が大事な参照点なんだと思う」という言葉。新海誠監督は高校生の思い出を語っていました。別に私はコンテンツをつくるクリエイターというわけではないのですが、なんとなく引っかかるところがあり、もう少しさかのぼって小学生の時のことを思い出してみようと思いました。なぜ小学生なのかといえば、中学生や高校生の時よりもずっと純粋だったと思うからです。小学生より前となると記憶があまりにも残っていません。唯一はっきりと覚えているのは、幼稚園に初めていく日、玄関先ではしゃいで転んでおでこを打って、初日から休むことになったことくらいでしょうか。

 

それで思い出したんですけど、小学校1年生の時は登校中に川に落ちました。足がつく程度の浅くて幅も狭い川ですが、学生服が濡れてしまって私だけ一足早く衣替えして夏服でした。

 

そんなことはどうでもいいんです。小学生の頃が純粋だったというのは、主に思考回路のことで、単純なことに疑問をもって、妙な空想や何かを抱いたりするという意味で純粋だったということです。恐竜が好きだった私は図鑑を飽きずに眺めて名前や時代を暗記していったり、負けず嫌いだったので恐竜に関する質問に答えられなかった時は必死で情報を探したりしました。世界五分前仮説みたいなことも本気で考えたこともあります。実は世界は今日の朝から始まっていて、昨日までの記憶は作られたものなんじゃないか。もっと昔、恐竜がいたっていうのは結局古い地層に化石を埋めただけなんじゃないか。そんな変な空想をする子供でした。いやいや、考えることが好きだったんですよ。

 

変な子供だったなと書いていて改めて思ってきました。でも、最近そんなことあんまり考えていなくて、またやってみたいなと思ったんです。それは、自分自身はいつまで連続してつながっているのかということ。いや、生まれてから今までずっと自分は自分であることはわかっているんです。だけど、数年前に引越しのため荷物をまとめているときに、4,5年前の日記を見つけたんです。中を読んで見ると書いた記憶が全然ないんですよね。忘れるんだから当たり前なんですが、自分自身の記憶から全く抜けてしまったけれど、自分自身が記録したものがあるというのがとても不思議に感じたんです。もはや他人が書いた日記と区別がつきませんから。それだったら現在の自分と、5年ほど前の自分は最早他人なのではないかと。身体的には同一ですけど、頭の中がガラッと変わってしまっていて。それって面白いなと思ったんですが、怖いなとも感じたんです。私がずっと連続していないような、地に足がつかないようなフワフワした感じというか。

 

そんなこと考えてると今の私の境遇の見方も変わってきて、29歳から30歳にただただ年をとるのではなくて、20代の私はもうじき滅んでしまうんだなとか、そんな考え方もできるなと。20代絶滅。隕石がもうすぐ落ちてくるんですよね。

 

昔の日記がまるで他人の書いた日記。人の細胞は約6年周期ですべて入れ替わってしまうそうなので、もしかしたらそれくらい前と今の私では、本当に違う人なのかもしれませんね。これってホラーですかね。細胞の入れ替わりはテセウスの船と近いものがありますが、それってちょっと攻殻機動隊の話にも近づいている?体を入れ替えても同一人物なのかどうか。意識さえ同一なら同一人物?

 

30になるのだからもっと思慮深くいきたいものです。